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論調

『夢が叶った』と言うことはどういうことか。
言い換えるとするならばそれは『理想が現実となった』ことを指す。
その理想が具体的なもので現実味のあるものか。
はたまた想像上でしか表せないようなものであるか。
それそのものはともかく、それが現実となれば『夢が叶った』のであろう。
その時夢ははたして潰えるのか。いや潰えてはいない。
ならば叶った夢はどこへ消えて行くのだろうか。
結果として現実に呑まれたのだ。
事実としてそこに存在してしまったのである。
ならば『夢を叶える』という行為は常に『夢を現実に喰らわす』とは言えないだろうか。
だとするのならば人の望む夢の形からかけ離れてはいないだろうか。
本来夢とは『見る』からこそ夢であり、叶えるべきものではない。
もし叶えるならば努力なるものが必要だ。
が、その努力は夢を現実へと産み落とす行為であり、常に何かを奪ってしまう。
夢を生むための材料として何かを蝕み汚し滅ぼしている。
それは物質的な何か、あるいは精神的な何かかは場合によるが。
夢のために奪われたそれは望んで奪われる訳ではない。
もちろん叶える側も奪いたくて奪っている訳ではないだろう。
私がもし夢見るならば、この世界に存在する夢のすべてが夢であり続けることを望む。
今の世界はひたすら夢を叶え、ひたすら何かを奪い、
世界を滅びに導いているようにしか私には見えない。
が、今この時も私はその夢すら夢見ぬよう夢をさすらい続けている。
何かを奪う存在でありたくないという夢の下に。
夢の否定はまるで迷宮か回廊のようだ。
時にその迷宮は私が私であるという事実の上を延び、私はそれをも否定している。
最早私は世界の定義をも否定する罪人なのだ。
私がその迷宮の最後で見る夢は自ら生み出した愚かな夢をすべて無に帰す夢だ。
私はその夢に納得したはずだった。何故今再び迷宮へ足を延ばしたか。
私を迷宮へ誘ったのは私ではない。私を縛っているのは私ではない。
何かを奪う存在でありたくないという夢は、当然私のためだけの夢ではない。
そう。私に首輪をかけた他人の夢が私を縛るのだ。
時にそれは苦痛となる。その他人の夢すら夢のままであればいいと願う。
が、私のその夢はその他人の夢を奪い汚すだろう。
その行為を私は望まない。ならば私は苦しみもがき地獄の底を這いずり回り続ける。
それが私の犯した現実の否定という罪の償いとなると信じている。
私の夢の最後がこの姿なのだとするならば、
私の見ている夢は皆がこのような首輪をしてもがくことに他ならない。
何と醜い夢だろうか。こんな夢を見るのは私だけで十分だ。
こんな夢は早く無に帰さなければならない。
が、私に出来ることは忘れる行為までである。
私が人間である限り、夢も欲も消えてはくれない。
それが事実なのだ。

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