カレンダー最新コメント最新記事(03/29)
(11/09)
(06/29)
(02/10)
(09/19) 最新トラックバックプロフィールブログ内検索最古記事アクセス解析忍者アナライズ |
ブログ日記のようなものPAGE | 2489 2488 2487 2486 2485 2484 2483 2482 2481 2480 2479 | ADMIN | WRITE 2010.08.27 Fri 22:30:02 まさに無知の知よくあることだった。 癖というか、欲というか。 それぐらい頻繁なことだった。 何がって。 まあ。説明するのも気が引ける内容なんだけど。 説明しないと話が進まないから説明。 突然、まるで幻聴のように。 「おいで」 と聞こえることがよくあった。 そう聞こえる時っていうのは、絶対自分一人しかいない時で。 聞こえると、ビクッてなる。 そこからはいつも、その声に誘われるがままに、 自分の意識が遠退く感じがする。 ずるずると、何処かへ落ちていく。 その声が誰の声か、分からなかった。 というか、そこに自分しかいないんだから、 その声も自分なんだろう、と考えるのが普通だった。 でも、それは冷静に考えた結果でしかなくて。 心の中では、どこかでその声を神の声だと、理由もなく感じていた。 当然、ここで大きく反発する。 んなわけあるか、と。 元より自分のことなんか大嫌いなのに、そんな声が聞こえて、 『オレスッゲー!!』なんて。 『うわー。キモ。』である。 だから意識が落ちながら、いつもまずは、その声がなんなのかを考える。 『自分の声なんだろ。自分の独りよがりなんだろ』 と、思いつつも。 『自分の意識から遠いそれを自分だと言うには証拠が必要だ』 となって。 馬鹿馬鹿しい心の中の感覚に、その証拠を突きつけてやろうと躍起になる。 だから必死に考える。 でも、そうやって考え始めることが、どこかへ落ちていく原因だっていうことを。 どこかしら感じてはいたのだけども。 落ちていく中では、いろんなことを考える。 その声が自分の声だ、ということを証明するために、 自分の中から洗いざらい吐き出す。 そこで一番大きく占めるのが、自分に対する自分の考え方。 『世界には本当は自分がいない』ということ。 正確には、自分の考え、自分の想像、自分の感情、まあいろいろ、 自分は感じ取っているけども、その全てが自分の中で完結していて、 世界そのものには存在していない、ということ。 確かに、自分の中のそういったものから、自分が行動を起こすことはあるけども、 それはただのきっかけでしかなくて、決してそのままの形で世界に現れることはない。 何かに置き換えられて、そこにあるかのように見えるだけ。 結局、本当の自分は世界にはない、どこか歪んだ自分なら、あるかもしれない、 …という結論を。ぐるぐると見直すかのように考える。 その考えがきっかけで。ものすごーく虚無感はあった。 でも、それは決して苦しいことじゃなくて、むしろいいことだと思っている。 なんでって、少なくとも自分がその考え方にものすごく納得できるからだ。 だからいつだって何かをする度に、 『自分は本当はこう思っているけど、そのまま世界に曝け出そうとしても無理だな』 なんて思ったりする。 ただ、本当に自分がそこにいないのか、と聞かれれば、どこか嘘になる。 世界を感じている自分がいる。 それは世界に自分が存在している証拠じゃないのか、とか。 とか。とか。とか。 まあとにかく。 その声をきっかけに、なんだか自分のことについてひたすら考える。 で、ハッと気が付いた時には、もう遅い。 自分で考えていると思っていたのに。 いつの間にか、その問いをしているのが、その謎の声だったりする。 謎の声は、自分の考えなんかを超越して、ひたすら質問してくる。 「なんで?」 「どうして?」 「本当に?」 その問いに答えようと必死になる自分。 そうやって考えれば考えるほど、そっと笑うかのように、そこに何かを感じ始める。 罠と言わんがばかりに、その声に引き寄せられていく。 何かが近付いてくる。 何かのそばへ、自分が落ちていく。 いつもの話はここまで。 いつもはこうやっていろいろ考えていくうちに、寝てしまう。 なんだかもう、自分の意識が完全に持っていかれてしまう。 意識白濁。そのままグッスリ。 いつもはそうだった。 でも昨日は、その先へ行ってしまった。 昨日はその声の問いに対する答えが異様にでた。 元々あった自分の考えも、そのとき自分が出した答えが塗りつぶしていく。 こうだと思っていたのに、考えてみれば、本当はこうだった。みたいな。 ただ、その答えが的を射ていないか、といえば違う。 逆に射を過ぎてる。否定できない。文句が言えない。 まあ前からそういうことはあったけど、昨日はその量が半端なかった。 そのまま自分の考えがグチャグチャになっていく。 そしてあろうことか、心でそれが神の声だと思っていた感覚が大きくなって溢れる。 否定するつもりが、否定できなくなる。 残った自分の考えは、もうただの足掻きでしかない。 「やめろ」 「違う」 「黙れ」 弱々しい否定の言葉しかでない。 否定したいがあまり、足掻きでも考える。 ありえない。そんなことはありえない。 でも、そこ止まり。考えが空回りにしかならない。 ずるずると声に引き寄せられて、挙げ句また問われる。 「どうして否定したいの?」 否定したいんじゃない。だってありえないじゃないか。 自分はただの人間で。あぁ、人間なんだろうか。 その証拠すら、自分は知らない。 弱い弱いゆるいゆるい考えが霞んで。 ついにトドメをさされた。 「どうしてそんなに考えるの?」 長い間、いろんな問いをされてきたけど、この問いは初めてだった。 いつも以上に戸惑った。 どうして考えるんだろう。 どうして問われたこと全てに答えようとしたんだろう。 どうして考えたくなってしまうんだろう。 あれ。おかしいな。考えている自分は、ここにある。 あぁ、世界にはないかもしれないけど、自分はここにある。 自分はそれを知ってる。知ってる?いやまてよ。 考えるということは答えが『ある』ということ。 自分は答えは必ずあると、どこかで思ってる。 答えはあると知っているから、諦めずに考える。 じゃあ今問いかけているこの声はあるの? その声が誰かを考えて、その答えは本当にあるの? この声の主は、何も知らない。だから聞いてくる。 自分はその声の主を知らない。自分かどうかも分からない。 この声の主は、世界にも、自分の中にも、ない。 ここで、自分の出した結論に、一気に血の気が引く。 …あぁ。そうか。 自分はある。あるから考える。あるからこそ答えがある。 でも、その声は、ない。ないから、答えもない。 そして、ないがままに、聞いてくる。 何も知らない、何もないから、聞いてくる。 もし、そこに何かあったなら。 きっとそれはそこで止まってしまう。 その答えが、終わりを作ってしまう。 でも、答えがないから、終わりがない。 それなのに自分は考えた。 いろんなことを考えた。いろんなことに気付いた。 本来なら考えもしないことを考えるようになった。 自分の中に、いろんなものが溢れた。 一つ、確固たる答えが、出る。 あぁ、神は、本当に、無なのか。 無ゆえに、可能性が生まれた。 無ゆえに、いろんなことを考えさせられた。 あれでもない。これでもない。 その無がなんなのかを理解しようとして。 ひたすら考えた。 そして自分は。 考えたが故に、いろんなことを知った。 考えたが故に、いろんなことを手にした。 神は、間接的に、自分の中にいろんなものを産み落とした。 神は無い。でも自分は有る。 『無』を追い求めていくうちに、自分の『有』は『無限』に触れて、ふくれあがった。 末恐ろしい事実だった。 その事実を事実と認めた自分の中へ、神はいよいよ巣くいだした。 元より、自分が世界にとって0であり、その0が自分にとって、 不完全ながらも神だ、とは思っていた。 でも、その考えすら呑み込んで、本当の無が、自分の中にやって来た。 自分が0だと思っていた時と決定的に違うこと。 それは、自分のすべてが無だと思い、自分の有を否定してきた状況と、 自分が有だと認め、それとは別で、どうしようもない無がそこにある、ということ。 自分は有だから、無についていろいろ考えられる。 本当に自分が無だったら、きっと考えることすらできない。 そんな結論が。 今、心にあった為体の知れない感覚のそばにある。 PR TrackbacksTRACKBACK URL : CommentsComment Form |