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どうあるべきか


何やら、面白い文章を見た。
他人を見て、自分が人違いをすることがあったとしても、
自分は自分を人違いしないのは何故か。
結論としては、自分がそういう人物だと思い込んだ時点で、
それこそが自分であり、間違いではないからだ、とか。
つまり、自分がもし違う誰かを名乗り、それを信じきっていたのなら、
それこそが自分になってしまうのだ、という。
そして何より、それが他人にも浸透してしまったら、
それが事実になり、結果他人だったはずが自分になってしまう。
だから人違いしない。なるほど、と思う。
ただ、考え方をひねると、自分が自分だと思いこんでいる自分は、
実は自分ではないかもしれない。
それを知らない、ということを、オレは理解しておかなければならない。

もう一つ。
理解とは常に過去にあり、今現在には何の意味も成せない、という。
これはプログラム的に言えば、必ず処理の流れが生じてしまうような感覚だと思う。
具体的に言うと、1+2+3+4+5、みたいなのがあったとするなら、
1+2で3を出して、3+3で6を出して、6+4で10を出して・・・
のようなこと。この流れを途中で止められてしまったら、答えは出ない。
こういった問題が外部から与えられたとして、その答えを求めるためには、
何かしら思考を巡らせなきゃいけない。
でも問題が与えられた瞬間には、まだ、必ず、答えは存在していない、ということ。
まだそこには思考がないから。考えがないから。1+2で止まってしまっている。
与えられたそれを理解する瞬間の存在すら許されず、
今、その時、その瞬間には、答えは常に存在していない。
そしてなにより、時間は常に進み、変化は常に生まれている。
ということは、問題が出された瞬間に、答えがでていないのであれば、
どんなに優秀な答えを導き出せたとしても、
新たに与えられた問題には対応できない。
だから、どんなに頭がよくても、本当の現在を知るためには、
理解するためのプロセスが必ず生じて、絶対間に合わないんだ。

具体的に言うと、1+2+3が、次の瞬間、
2+3+4という問題にすり替わっているのに、
頭の中ではまだ1+2をし始めた段階、のようなもの。
例え0.000000001秒で1+2+3の結果を求められたとしても、
ほぼ0秒の間隔で2+3+4という問題が与えられてしまったら、
対応できない。間に合わない。いつか何かを諦めなきゃいけない。
そして何より、実際の世界が与えて来る問題はそんな単純な数式じゃない。
目から与えられる映像、耳から与えられる音、鼻から与えられる匂い、
手先から与えられる感触、舌から与えられる味、あるいはもっと違ったもの。
そのすべてを常に考え、答えを求めるとするなら、どうしたって間に合わない。
この脳みそは間に合わないことを見越して、
何かをかっ飛ばしてそういう情報を得ているかもしれない。
じゃあ尚更、考えたって、本当のことは理解できるはずがない。
理解の中には、本当の現在がない。

考えれば考えるほど、それは無意味な行為なのかもしれない。
そこにあるのは過去の産物で、確かに価値あるもの、大事にしたいものだけども。
これからの何かに役立つものか、と言われればそんなことはない。
思い出に浸るためのものでしかなくて、これから先には使えない。
もし、過去をちゃんと考えて、理解して、これからを予測できるように
なったとしても、世界はそんな少ない情報から予測できるほど単純じゃなくて、
予想外な挙動を見せるのだから、確定的な予測はできない。
予測は予測でしかなくて、それが事実になることはない。

まあ、とにかく。
自分は自分自身のことも、何か与えられた問いも答えも、
何もわかっていないということ。
ここで更にもう一つ、見つけた言葉。
世界とは、無意味だ。
そこであげられていた例で言うのなら、光の色の集まりのようなものだとか。
赤や青、黄色や紫、まあなんだっていい。
そのすべてが集まって、結果的に出来上がるのは透明、色がなくなる。
それに似ている、というのだ。
確かに。
オレが見ている世界が青だとして、そこに見える世界があったとしても、所詮青だ。
そして他人が見ている世界であっても、赤なら赤、黄色なら黄色でしかない。
その一つ一つの世界は、確かに何かしら色があり、
意味を持っているかもしれないが、
そのすべてを統合し、全員が見ている世界を言い表すことができたとするのなら、
無色、透明、無意味になる。そんなイメージができる。
つまり、絶対的な意味を持つものは、世界のどこにも存在していない。
青の世界では青でしかない。そこには赤がない。
その時点で同じ意味をもつことはなくなってしまう。
だから、本質的には世界は無意味かもしれない。

そういう考え方をしていると、目の前に紙が出て来た。
大きな大きな紙。そこにはまだ何も描かれていない。
自分は描くための筆を持っている。
それでいて、頭の中で勝手に解釈する。
あぁ、この紙はオレが見ている世界で、
本当の世界からすれば、たった一部、だった1ページなんだ。
オレは、そんなたった1ページでも自由に絵を描くことが許されている。
だったら、オレがここに描きたいものは、なんだろう。
いや違う。そもそも描いていいのか?
ここに描かれるべきことがあるんじゃないのか?
でも、だったら何故オレは紙を与えられ、筆を持ってる?
それは許可なのか?
いや、でも、いや、でも・・・
結局わからない。

オレにあるのはなんだろう。
それそのものが何かはわからない。
考えたって答えは出ないんだろう。
オレがしていることをオレが理解しようとしても、
きっとそれは現在のオレじゃないから、理解が追いつかない。
それこそ、オレの衝動は時間を超越してしまっているかもしれない。
そう思うと、どうしようもない。
筆を握っていると、何かしらモヤモヤする。
絵にはなりきれない、世界にはなりきれない、何かが漂ってる。
それそのものが生き物のようだ。
もしこの生き物が自由になったら、オレのページはどうなるんだろう。
気になる半面、やっぱり怖い。

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