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有限無限


人は。
人にのみ敏感に反応する。
誰がどうだとか。
自分がどうだとか。
決して人が関わらないような物事、生物に関しては、
大した反応を見せない。
もしそんなことに反応するような人がいたとしても、
「だから?」とか「どうでもいい」とか。
その程度に扱われるのが当たり前なんだろう。
人は人が生きていれば地球がどうなったっていいのだから。
ただ、自分が生きるために、欲望のために、必要な食べ物、環境など。
そういうことがどうしても必要だから、
反応せざる負えなくなっているだけ。
もし人の行うことすべてが地球にとって無害であり、
また地球におけるすべてが人にとって無関係だったなら。
きっと人はもっともっと、人しか見なくなる。
そしてそれは決して悪にはなり得ない。
人の言う善は、どんなに言い訳をしたとしても、
最終的に人のためでしかない。

「自分」がすべてを知ることはできない。
まず「自分」である限り、「自分」という枠を
抜け出すことができないのだから。
「自分」の枠の外側を、知ることができない。
たった一つ。極僅かで。自分しか直接触れることができない「自分」。
小さ過ぎてどうしようもない、そんなその外側。
そう思うと、どれほどのことを知らないのか、
とことん思い知らされる。
自分が何も知らないという現実を、突きつけられる。
でも。
そんな世界がある、と思えること自体が。
どこか幸せと感じてしまう自分がいる。

考えれば考えるほど。
人としてダメなヤツに自分が成り下がっていく。
枠の外側を眺め過ぎて、内側を見失い、
自分が人なのか、自分が今、生きているのか、
そんな根本的なことですら、分からなくなっていく。
人とはなんなのか。自分とはなんなのか。
生きるとはどんな定義なのか。
考えては見るものの、決して絶対的答えには辿り着けず。
無駄にいろんなものを浪費していく。

誰かが言っていた。
確か「すべて」は「ない」、みたいな意味だった。
ありとあらゆる定義、解答、物質、生き物のすべてに枠がなく、
決してその中に「ありえない」という事象自体が存在しないとき、
大小善悪の評価に意味がなくなる。
あらゆる物事が無意味になり、無価値になり、
すべてが、決して何かを成すことがない。
すでにすべての意味を包容しているのだから。
すでにすべての価値を包容しているのだから。
「すべて」である時点ですでに完成されたもの。
不足などなく。不正などなく。
あったとしても排除されることがない。
だから「すべて」=「ない」んだそうだ。

ありとあらゆるものがすべて含まれたもの。
それがすべてなのだから、それしか存在していない。
何よりも汚く。何よりも純粋。
オレが。見ようとしている世界、「すべて」は。
「無」なのかもしれない。
もし誰かにそれを押し付ける、となると、
当然枠の破壊行為になる。
そして「今見ている世界」のすべてを、
肯定しつつも破壊するものなんだろう。
今存在している「有」、「有限」。
そのすべてが、枠の中にあるからこそ、存在できている。
それを忘れてはいけない。
と。思う。
肝に銘じなければ。
オレは。
無に憧れてしまっている。

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