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ブログ日記のようなものPAGE | 559 558 953 557 556 555 554 553 552 551 549 | ADMIN | WRITE 2008.08.27 Wed 21:41:07 駄文またくだらない話だ。
聞きなくなければ見なければいい。 ここに何を求めて来ているのかオレには分からない。 ここにあるものが一体に影響するかオレは知らない。 オレに責任は取れない。 ただ「習慣だから」というまるで病気にかかったようなことは言うな。 何事に対しても常に同じであり同じものであると思い込み、 同じ対応をしていて本当にいいと思っているのか? 突然裏切られるかもしれない。 いや、逆もあり得る。 突然理解しあえるかもしれない。 何があろうと責任は取れない。 どうか「あたりまえ」や「普通」に捕われないでくれ。 そこに生まれ落ちたものを今までと同じものとして扱わないでくれ。 もっとその美しさと醜さに触れてくれ。 とはいえこんなもの所詮願いでしかない。 オレに他人を強制する権利はないのだから。 ・・・最近はずっとこの調子だ。 もしオレのこの状況に何かしら違和感があるのなら言えばいい。 言われない限り直す理由がないのだから。 そうだ。 言わるまえに実行しなければそれは良くも悪くもそこに存在しない。 存在してこそそこに価値が存在する。 その後になってやっとそれがあるべきものか消えるべきものか判断される。 存在することそのものを躊躇すれば良くも悪くも一生それは存在出来ない。 それでもオレの何が問題なのか分かるか? よくも悪くもあるべきものも消えるべきものも。 すべてに触れすべてを愛しすべてを恨もうとしていること。 それ自体が良いことか悪いことかという堂々巡りな疑問だ。 オレは僅かなりとも悪いと思われるのなら存在すべきでない思考だと感じている。 だかその思考すら否定されるのなら一体何をもって行動すべきか。 すべては欲望に託される。 「したい」や「欲しい」といった言葉がすべてを実現させる。 それはもはや本能の域であり理論など通用しない。 ただ存在させるため、生まれながらにして与えられた能力。 そう。 結局何もかも理論を唱える前に存在せねばならない。 無いものに理論は無い。 だからこの結論すらなかった。 この結論は他人からの貰い物をオレなりに解釈したものだ。 根からすべてをオレが組んだものじゃない。 オレに欠けているものは根底を生むこと。 何かを与えられなければ何も出来ないということ。 自分が欲しいもの。 自分がしたいこと。 どこかまず存在を否定してしまう。 だから自分のそういった欲望と他人の希望が重なった時にしか生まれない。 ・・・誰だオレそのものを許したのは。 他人から受けた言葉もそうだったかもしれない。 けれどその言葉を受けて本当に許したのは自分自身なんだろう。 だからこそ責任を負わなければならない。 自分が自分であることへの責任を。 自分という存在が及ぼしたすべての事柄への責任を。 責任を負うことからもう逃げてはいけない。 存在することからもう逃げてはいけない。 きっと本当の意味では存在出来ないのかもしれない。 どこか変質して別のものとなってしまうかもしれない。 それでも存在しようとしてしまったことへの責任は負わなければならない。 所詮それは自分の欲望が生んだもの。 理論無くしてただ存在してしまったもの。 存在を否定されてもおかしくない。 だたオレが改めなければならないのは否定だけではないということ。 肯定された時。 それはどうあるべきなんだろう。 次の瞬間変質し、肯定されていたそれとは違ったものになっているかもしれない。 だからといって同じものであり続けることが果たしていいのか。 存続も変化もまた欲望の続きでしかないのかもしれない。 「そうあり続けたい」か「もっと先を目指したい」か。 別にそれ自体は存在して構わないだろう。 問題は根であるその欲望を忘れることだ。 根を絶たれた途端にそれは存在を否定される。 例え「あたりまえ」になっていたとしても。 そんな危ういものであると言うことを忘れることが恐ろしいのだ。 最近はそんな風に感じるものが多い気がする。 確かに欲望で生まれたそれらは素晴らしいものだ。 しかし無を有とする欲望という大きな力を何も考えず振りかざしていいものか。 何かを生む時それは同時に何かを奪う。 変化を求め続け、立ち止まることを忘れてしまっていいのだろうか。 生まれたそれを無造作に放っておいて。 価値や意味や成り立ちを見て微笑む時間は本当に無くていいのだろうか。 夢を見て。 希望を見て。 叶え終わった夢に対して。 「終わったから次へ」でいいのだろうか? 絵を描いて。 文章を書いて。 何か創って。 それに何かを感じることを忘れている気がする。 生むことがすべてじゃないだろう? 生んだことへ。 この世界に生まれてきたことへ。 喜びと悲しみと幸せと苦しみを感じることを。 忘れていていいのだろうか。 その行為を許されていないわけではないだろうに。 走ることがすべてではないだろうに。 生むことへの責任と、それが生まれたことをどう思うのか。 未来ではなく過去も現代も。 そのすべてが世界を創るんじゃないのか? PR TrackbacksTRACKBACK URL : CommentsComment Form |