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ブログ日記のようなものPAGE | 923 817 816 815 814 924 813 812 811 810 809 | ADMIN | WRITE 2009.05.12 Tue 22:59:00 償えない罪の償い方償えない罪。
そう分かりきっているのなら、当然それは償えない。 『償えない』のだから『償いたい』だなんて思っても、無駄だ。 でも。それでも。 償おうという意志がある時。 人は『償えない』という事実に反しようとするのだろうか。 それは無駄な足掻きでしかない、のかもしれないのに。 そもそも、それを罪だと決めたのは誰だ? 友達?親?恋人?世間?法律? どうしてその罪は償えない? そもそも『犯した罪を償う』とは何だ? 時間を戻すことも叶わないというのに、何が償いになる? その償いが、犯した罪と同等であると、誰が決めた? まるで空気を掴むように。 定義が分からない。 ただ言えることは。 罪を定めた本人にしか、罪を赦すことができない、ということ。 罪を定めた本人の前で、罪人は言う。 「私は罪を償うため○○をしました。どうかこれで赦して下さい」 この時点で罪人は、この罪を定めた本人に従うしかない。 そしてその本人が「貴方が何をしても、赦しません」と言った途端。 それはまさしく『償うことのできない罪』になってしまう。 償おうという意志を示し続けるその人は、まるで奴隷のようになっていく。 だったら自分はそこまでして、どうして赦して欲しいのだろう? 罪を赦された後、自分はどうありたくて、償おうとするのだろう? 自分が好きだから? 自分は間違っていないと証明したいから? それとも為体の知れない恐怖を感じているからこその、自己防衛? 何にしても、自分のためでしかない。 だって、罪を定めた本人にとって罪人という存在は、 『赦したくない存在』以外の何でもないのだから。 『赦せる存在』になった瞬間、それはもう罪人ではないのだから。 ただ思うに。 ある意味、『償いたい』と『プロポーズしたい』は似てる気がする。 貴方にとって、私は赦された存在でありたい。でも今は罪人で。 貴方にとって、私は愛される存在でありたい。でも今は赤の他人で。 その人の決めた枠の中に、自分が入って行くような。そんな感じ。 ある時は気まますぎて、その枠もよくわからないものだったり。 ある時は言葉でしっかり定義された、ルールのような枠だったり。 「私は過去、確かに貴方の規範や論理を越えるようなことをしてしまった」 「でも、もうそんなことはしない。罪は犯さない」 「だから貴方の規範や論理によって私を裁き、私に償いをさせて欲しい」 「赦さないだなんて言わないで。私は貴方のルールに従って生きたいんだ」 「貴方に認められたいんだ」 そんなイメージ。実に分かりづらい。 そういう意志がある人は、きっと『その人が好きである自分が好き』なんだろう。 もし自分のことが嫌いだったら、そんなこと願わない。 それこそ、オレのように。 「お前は一生罪人だ。死んじまえ」だとか。 「当然の結果だろ。償えるだなんて思うな」だとか。 「お前なんかが誰かに認められるはずないだろ」だとか。 自分を蹴落として、自分の意志すべてを叩き潰そうとしてしまう。 ・・・かもしれない。あくまで自分の話。 自分が好きになれないと、そんな意志も、生まれない。 意志を生みたいと願うことすら、ままならない。 でも、そんな自分から逸脱して、罪の償いや告白をしたのなら。 それはある意味、覚悟かもしれない。 自分は、償う。 そして誰かの決めた枠の中に飛び込んでいきたい。 誰か。何か。友達。親。恋人。世間。法律。 自分は、従う。 もう罪は犯さない。もうそのルールからはみ出ない。 「そんなの嫌だ。自分の生き方を決めるのは、自分の法律を決めるのは、自分だ」 誰も否定しないだろうよ。いや、否定出来ないだろうよ。 貴方の決めることに、誰が文句を言うだろう。 どうして耳を傾ける必要があるのだろう。 自分の定めたルールで生きていればいいじゃないか。 そして。 自分の行うすべての行為を赦してしまうか。 自分の行うすべての行為を赦さないか。 あるいはその間を定めるか。 決めるのは、他の誰でもない。自分だ。 結論は? 罪を償いたいのなら、赦されたいのなら。 相応の覚悟の元、その罪を罪と定めた本人の規範や論理、 ルールに従って生きて行く努力をしなければならない。 それが嫌なら、それ自体が自分の規範や論理でありルールなだけ。 そのルールに従っていたいと、自分が願っているだけ。 決めるのは自分以外の誰でもない。 「アイツは罪から逃げた」だなんて言われても、 「自分は逃げてない。自分は自分に納得してる。間違ってない」と思うなら。 それは間違いじゃない。 だって、最後に自分のことを決めるのは、自分以外の誰でもないのだから。 自分がどこか間違っていると感じたのなら、どこか旅に出てみたらどうだろう。 「正しい在り方、償い方はどこにあるのだろう」とか思いつつ放浪すればいい。 PR TrackbacksTRACKBACK URL : CommentsComment Form |