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気分で絵を語ってみる

オレの周りには結構絵描きが多い。
いや多いというのは何よりも多いということが明白でないので結局のところ多くもないのかもしれない。
それ以前にどこまでを絵描きと呼ぶのかすら曖昧である限り確信的な表現ではないだろう。
まあどちらにしろ、だ。
いろんな種類の絵を見る機会がオレが思うよりもあるということ。
その度にオレが見る部分というのがどこかおかしい気がしてならない。

絵に対して深々と見るようになったのはおそらく中学入学後。
今は芸術大学に行っている子がその頃からよく絵を描き、それを見る機会があったため、
絵を作成する過程について考えるようになったようだった。
といっても考えるだけで調べるようなことはしなかった。
おかげで大きな誤解をしていた。
誤解に気付くまでに3年はかかっただろう。
何を誤解していたかというと、CG(2D含め)作成の過程について。
きっとペジェのようなもの以外に何らかの方法が存在するのだろうが、
あの1ドット1ドットに狂い無く色を置けば絵が完成していくのだと感じていた。
写真のようなクオリティですらドット単位の作業が出来るようになればこそ完成するのだと感じていた。
大きなサイズの画像の縮小によるアンチエイリアスに頼るという発想も、
レイヤーや覆い焼き、グラデージョンといった機能すら理解していなかった。
ただ等倍の白い画面に向かい鉛筆ツールで1ドットずつ打つことが基本だと感じていた。

その誤解は何かしらと連鎖を起こした。
自分で絵を描こうとすると。
ドット単位で絵を描く場合、どうしても規則性に頼ってしまう。
3ドット打ってはその下に1つずらしてドットを打つことで曲線を描き、
徐々に3ドットを2ドット、1ドットと減らすことで尖らせる。
大まかに置きたい色を散らばせて、欲しい色を欲しい場所に残して多少整理し、
いらない部分はまた規則正しく消してゆく。
他人の絵をみれば感じることは。
顔と体のサイズの比率、腕や足の生えている角度、目と鼻と口の位置の比率。
遠近などを出す場合における部分の変化。
輪郭、服や手などでの線の曲がり具合、線の太さ。
その全てを分析し真似出来れば同じものが完成すると感じていた。

結局ツールに頼れば技術も時間も必要無い。
他人の絵も比率や太さ強弱を理解したところで、
発想、構造、何よりも思いの込め方なんてものが異なってくる。
でも正直そう言う視野で絵を見る方が慣れてしまったようで。
おかげさまで今も尚オリジナリティのあるものが描けない。
多少いじっても何処かで見た構図。
何も考えずに描いたところで模写に近くなる。
だからといってちゃんと模写なのかと言われれば、
足の辺りはよく癖が出る。
土踏まずがないとか、かかとと指先で大きさに変化が無いとか。
何をやっても不完全というか中途半端。

いや絵を語ったところで外部の人間の言うことなのだから意味もなにもないのだが。

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