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授業開始2日目

朝起きたら、目が真っ赤だった。
花粉症。めんどくさい。
でも。
考えてみれば、これも人が原因だったり。
大量に木を切り倒して、禿げ山になったところに、
スギやらヒノキやら植えまくって、
最近になってその木が成長して、この有様。
地元で高速道路を走ろうものなら、よく分かる。
山の木の並びが明らかに自然ではない。
そんな場所が無数にある。
ため息をつきたくなる。

でも。それ以上に。
自然ではない木の並びを見分けられない人がいることに驚いた。
都会には、もう山なんてものはない。
あるのは建物ばっかり。
だから分からないらしい。
「ほらあそことかモロやん」と場所を指で示しても、
「え、どこどこ?どこも一緒じゃん」と言い出す。
・・・怖いなぁ。

まあそんなことはさておき。
今日は教授が新しい赤外線カメラを出して来てくれた。
今度はこれのサーバを英文の仕様書を
読みながら作らなければならない。
やりがいは、あるかも。多分。
そして当然のように聞かれる。
Kinectは?
せめて撮影速度が60Hzになってくれれば考えるのになぁ。
でもそのうち上がると思う。
だから今は早いものを使って、開発しておきたい。
Kinectへの流用前提で。
ライブラリも作って。
どうなるだろう。

・・・。
独断でやることじゃないか。

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思うことは我が儘ばかり


どうしていくべきなのか。
どうあるべきなのか。
理想とはなんだったか。
そんなものに価値があったのか。
もうよく分からない。

今日は。
教科書やら参考書を探して買うついでに、
音のプログラミングの本を買ってみた。
画像処理とかアニメーションなんかの本は、
もう何冊か読んでみたけど、音はなかった。
見てみれば、いろんな波形が描いてある。
これを音として出すことはよしとして、
これをグラフとして描画できるようになると
他にも使えそうだな、と思った。
思っただけだけど。

誰かが言っていた。
ゲームを買うとき。
グラフィックが綺麗だから買う人や、
曲が良いから買う人はいるが、
フログラムが美しいから買う人はいない、とか。
もちろん、ゲームのルールを創り出しているのはプログラムだが
「面白いルール=美しいプログラム」ではない。
どんなに凄いプログラムを組んだところで、
それが評価されるとは限らない。
ハードウエア設計から全部やってのけたとしても、
役に立たなければ時間と金の浪費にしか繋がらない。
残念なことだな、とは思う。
思うだけ。

・・・最近思う。
かっこいいとか、かわいいとか、凄いとか、綺麗とか。
そういう感覚が最近では溢れ返っている。
そう思うと、昔のオレにはその中でも、
憧れる、という感覚が一番大きかった。
マネしたい、とか。どうなってるんだろう、とか。
別に目立ちたいわけでもなく、
ただ興味が湧いて、触れてみたくなる、好奇心。
でも。
現実にその中を覗けば想像を遥かに越えた、
単純さと現実しかなかった。
オレが憧れていたものは、知識でも技能でもなく
人が創り出した特権でしかなかった。

正直、便利な世の中というものに
嫌気がさしているのかもしれない。
簡単な操作でこれができる。
内部的にどんなことをやっているかなんて
知らなくていい、と言って、
理解の外に追い出される。
そして内部的なものが変わる度に振り回されて。
結局自分は何も知らないまま、
まるですべてを知っているかのように、
物事を進めていく。

オレは。
どうしてこんなにも我が儘なのだろう。

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理想とする自分の姿


どんな自分であるべきだろう。
理想の自分とは。なんだろう。
愛せる自分になる?
違う。
オレはオレの意志で何かを決められるような。
そんな存在じゃない。

オレは。
自由になって、好き勝手に生きるような。
そんな存在になってはいけない。
もう。死んでると考えるぐらいに。
道具として、使えるような、そんな存在であるべきだ。
使えないのなら、捨てられるだけの、そんな存在であるべきだ。

大人しく。
しないと。
ね。

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有限無限


人は。
人にのみ敏感に反応する。
誰がどうだとか。
自分がどうだとか。
決して人が関わらないような物事、生物に関しては、
大した反応を見せない。
もしそんなことに反応するような人がいたとしても、
「だから?」とか「どうでもいい」とか。
その程度に扱われるのが当たり前なんだろう。
人は人が生きていれば地球がどうなったっていいのだから。
ただ、自分が生きるために、欲望のために、必要な食べ物、環境など。
そういうことがどうしても必要だから、
反応せざる負えなくなっているだけ。
もし人の行うことすべてが地球にとって無害であり、
また地球におけるすべてが人にとって無関係だったなら。
きっと人はもっともっと、人しか見なくなる。
そしてそれは決して悪にはなり得ない。
人の言う善は、どんなに言い訳をしたとしても、
最終的に人のためでしかない。

「自分」がすべてを知ることはできない。
まず「自分」である限り、「自分」という枠を
抜け出すことができないのだから。
「自分」の枠の外側を、知ることができない。
たった一つ。極僅かで。自分しか直接触れることができない「自分」。
小さ過ぎてどうしようもない、そんなその外側。
そう思うと、どれほどのことを知らないのか、
とことん思い知らされる。
自分が何も知らないという現実を、突きつけられる。
でも。
そんな世界がある、と思えること自体が。
どこか幸せと感じてしまう自分がいる。

考えれば考えるほど。
人としてダメなヤツに自分が成り下がっていく。
枠の外側を眺め過ぎて、内側を見失い、
自分が人なのか、自分が今、生きているのか、
そんな根本的なことですら、分からなくなっていく。
人とはなんなのか。自分とはなんなのか。
生きるとはどんな定義なのか。
考えては見るものの、決して絶対的答えには辿り着けず。
無駄にいろんなものを浪費していく。

誰かが言っていた。
確か「すべて」は「ない」、みたいな意味だった。
ありとあらゆる定義、解答、物質、生き物のすべてに枠がなく、
決してその中に「ありえない」という事象自体が存在しないとき、
大小善悪の評価に意味がなくなる。
あらゆる物事が無意味になり、無価値になり、
すべてが、決して何かを成すことがない。
すでにすべての意味を包容しているのだから。
すでにすべての価値を包容しているのだから。
「すべて」である時点ですでに完成されたもの。
不足などなく。不正などなく。
あったとしても排除されることがない。
だから「すべて」=「ない」んだそうだ。

ありとあらゆるものがすべて含まれたもの。
それがすべてなのだから、それしか存在していない。
何よりも汚く。何よりも純粋。
オレが。見ようとしている世界、「すべて」は。
「無」なのかもしれない。
もし誰かにそれを押し付ける、となると、
当然枠の破壊行為になる。
そして「今見ている世界」のすべてを、
肯定しつつも破壊するものなんだろう。
今存在している「有」、「有限」。
そのすべてが、枠の中にあるからこそ、存在できている。
それを忘れてはいけない。
と。思う。
肝に銘じなければ。
オレは。
無に憧れてしまっている。

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日常に平和を


首を締め上げる。
自分の醜さばかりに目がついて。
いや。
醜さしかないんだ。
そんなことは分かってる。

オレが楽しくても意味がない。
そんなものに価値はない。
必要なことが日常が正常に回ること。
何事もないこと。
そのためにわざわざ危ない橋を渡る必要はない。
必要以上に人と会う必要も喋る必要もない。
自分の言動が原因で起こりうるすべての変化。
それ自体を求めることなどする必要がない。
正常を守るために。
オレは生きなければならない。
それ以上は必要ない。
私利私欲で変化を求めるべきじゃない。
なにも。
なにも。

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