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レポート2つ消化で残り1つ

時間感覚が変になった。
2限終了後、昼飯を喰い、レポート課題消化開始。
3時頃に一番厄介であろう市場調査のレポート課題が終わった。
波に乗って次なるレポート課題に取りかかる。
こっちはCGに関するレポート。途中までやって、時間になったので帰宅。

・・・のつもりが、1時間間違えてた(爆)

9時に帰るつもりが、8時に家に到着。
家でやるとなると、暖房器具の関係で台所で課題をする羽目になる。
周りでうろうろゴタゴタしてるからあんまり・・・ねぇ?
それでもなんとか続きをやって、今レポート書き終わったわけです。はい。
以下、なんとなくレポートの最後のページ抜粋。



 CGを緻密な計算の下で作成すれば、よりリアルなものを作ることが可能になる。逆に現実にはありえないものを作ることも可能である。だが、それはCGに限ったことではない。紙の上に鉛筆やシャーペンで描いても同様である。CGの方がより効率的に、時間をかけずに、綺麗にイラストを描ける、というだけである。そして何より、CGを使ったからといって、描いている人物そのものが変化したわけではない。
 近年、確かに優れた技術が発達し、すばらしいCGが生み出されている。しかし、それらの技術は個人個人の能力を成長させるものではなく、あくまで質のよいものを完成させる技術であることを忘れてはならない。完成した作品の質の良さに惹かれ、CGソフトの機能に頼り切った作品になりがちである。
 紙の上では緻密な計算を行うような機能を使えない。それでもCGでは表現出来ない、すばらしい作品は数多く存在する。コンピュータよりも身近であるはずの紙と鉛筆がそんな作品を作り出す道具だとするのなら、これほどすばらしいことはない。

 私はコンピュータらしさが全面的に現れているイラストはすばらしいと思う。だが、コンピュータに頼り切ったリアルな画像があまり好きではない。というのも、コンピュータの緻密さを覆い隠し、現実には無限に存在するノイズを無理に数値化し、誤摩化しながら再現しようとすることが、好きになれないのである。
 CGは人間が作ったものである。自然に生まれたものではない。何億年と積み重なった歴史の上に今の世界があり、この形に至るまでの経緯を私たちは知らない。そんな世界をCGで再現しようとすることは無謀であるとともに、未だ知られていない現実を切り捨て、無視しているような気がしてならない。そして、切り捨てられている現実の内容には、作者一人一人の個性も含まれているような気がするのである。
 シミュレータのようなものでない限り、CGを描くのは人間である。CGソフトには確かに、質のよいものを作り出す機能を求められる。同様に、人間に求められるのは独創性ではないだろうか。



・・・結論。とにかく読みにくい(笑)
そして言ってることが意味不明。「だから?」「んで?」である。
でもってクセ出過ぎ。「ような」とか「もの」とか「こと」とか多すぎ。
修行が足りん。出直せ。
はいすみませんむしろもう出ないんで許して下さい...orz

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正しさは堂々巡り

足が痛い。
背中も痛い。
そして・・・も痛い。
どこもかしこも痛い痛い。
でも痛くないよりはいい。
痛くなくなったら、それはそれで狂いそうだ。

誰であれ誰かに話しかけられると、どうしても動揺する。
「よっす」程度ならいい。その後に対して会話は必要ない。
でも話を振られると返事に困る。何を言えばいいのか分からなくなる。
適当にギャグにして強制終了が定番。
でも意見を求められると、もうどうしようもない。
「○○やったら○○やったで」と、実際あったことをそのまま返せたらいいところ。
・・・こんな話なら今更だ。
いつものことだし、心配するほどの問題じゃない。これで困るのは自分だけだ。
何が問題って、最近自我がある発言が多くなって来たということ。
「○○って○○やろ?」とかいう勝手な推測。
「自分は○○やから」とかいう自分主張。
そういう言葉がぼろぼろ出る度にイライラする。
そんな根拠のないこと言うな。
間違いだらけの自分の情報を他人に与えるな。
馬鹿のくせにお前の意見なんか聞きたかねぇよ。
イライライライラ。

でも、それを止める段階までたどり着けなくなって来た。
「教えて」と言われてしまった限り、前例だけでは説明出来ない。
その例をどう解釈するのかを説明しなければならない。
「ここはこうする」という根拠が絶対必要になる。
でも自分はその根拠を知らない。
自分がそうだと思っているだけで、それが「正しい」と言えるはずがない。
正しいかどうか分からない内容を押し付けるわけにはいかない。
でも「教えて」と言われてしまう。
「嫌だ」という気には到底なれない。
それはその人の助けの声だということには違いないのだから。
助けを求めなければ辛い状況だということには違いないのだから。
だから確認しにいく過程が出来てしまった。
「先生、これってこれで合ってますか?」
「うん合ってるよ」
確認が取れたら教える。その内容に関しては正しいことが判明したから。
・・・そうなると究極的に気持ち悪い。
いや、「教えて」と言って来た子に関しては問題が解決出来る。
ちゃんと理解出来たなら、その子は満足出来るはずだから。

でもオレ自身はそうはいかない。
そこに「理解している」という事実が発生してるのだから。
「正しい」というものが提示されてしまっているから。
違う結局自分は分かってない。
というものの何を分かってないのか、と聞かれると、
「何故これが正しいのか分かってない」と言ってしまう。
「正しい」と証明してもらったことに対して疑問を持つ。
じゃあ「正しい」の「正しい」理由を説明?
結局堂々巡り。
それでも結果は「正しい」らしく。
何事にも僅かな可能性は存在し、実現出来ないとは言い切れない、とは思うが。
事実があったとしても、間違っている可能性がないとは言い切れない、とも思う。
前者は今まで何度か言ったことがあるけども、
解釈を逆にした後者のような言い方をするのは初かもしれない。
だとするなら?
僅かでも、それが間違いなら押し付ける気にはなれない。
という話。
それだけなんだけど、相変わらず長文。

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甘えも哀れみも必要ない

何事も、工程は意味を成さない。意味を成すのは結果のみ。
いかなる場合であっても、結果が求めたものでないのなら、意味を成せない。
いくらどんな経緯でその結果に至ったかを語っても、結果と言う事実には勝てない。
それは単なる言い訳だ。
もし言い訳をするのなら、それは何なる甘えだ。
もし言い訳が許されるのなら、それは単なる哀れみだ。
そして何も残らない。何も得られない。
すべてが崩れ落ちる。
完成出来ずに終わる。

自分の中で完結出来る内容だったとしよう。
甘えるのも哀れむのも、自分だ。
そして結果を得られないのも自分だ。
結果にたどり着けなくて、恨まれるのも自分だ。
それによって悲しむのも自分だけ。
他人は、その結果の真の姿を知らないのだから。

誰かに頼っていたとしよう。
甘えるのが自分なら、哀れむのは他人だ。
甘えるのが他人なら、哀れむのは自分だ。
哀れむことなど許されず、結果を求め続けたなら?
甘えの許されないものならば?
結果を得られないのは、自分であり他人だ。
憎まれるのは、甘える者。
悲しむのは、哀れむ者。
結果を導けなかった、甘える者は罪を負う。
結果を導くという約束を破った、と。
哀れむ者は、自分を責める理由を持たない。
出来なかったのは自分じゃない。アイツだ。
アイツは出来ると言ったのに、本当は出来ないんじゃないか。
嘘つきはアイツだ。悪いのはアイツだ。アイツのせいで。アイツのせいで。
それが妥当な思考。それが事実。だからこそ、甘える者は罪を負う。
結果はやり直せない。
もう一度、は次。本当に欲しかった「その時」は帰って来ない。

罪を償うには?単純に考えてみなよ。
やり直しが出来ないなら、本当の償いはやって来ない。
結果は永遠に続く。そして消えない。
永遠に恨まれる。永遠に悲しむ。永遠に、永遠に。
それが事実なら、逃げるという選択肢は存在しない。
自分じゃない他人は自分のように逃げたりしない。
恨み続ける。消えない。消えない。
その事実にずっとずっと抉られることが、せめてもの償いじゃないか。

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絶賛予定詰め詰め中

背中痛いっす。
姿勢悪いからかのう?
それとも歳かのう?(ちょっと早くね?)
ん〜・・・だるい。

酷い。
レポート提出は掲示されていた日だと思ってたのに。
テスト期間は休みなのに、出しに行くわけ?と思ってた矢先。
提出日変更。
おかげさまで1週間の間にレポート3つ提出決定。
その周の月曜には3つの講義でテスト、水曜は2つ・・・まあ実質1つだけど。
それにしたって・・・鬼だ...orz
まあ、順番にやればいつか終わるさ。
・・・多分。
あぁ・・・だるい。

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感情は現実にはなれない

結局何もない。
あれもこれも触れようとするけど。
それを得ようとしない。
作ろうとも思わない。
こうして欲しいと渡されても、その通りにやってしまえばその後は遠くへ消える。
それを望んだのは自分だったかな。
だったら後悔するのはおかしいよね。否定するのはおかしいよね。
それが正しいと思ったら、それは自分の中では絶対だよね。
こんなことですら、いろんなところに手を伸ばそうとしてる。
正しくなかったら?間違ってないわけ?それは本当?
実はあるんだよ。それは本当なんだよ。正しいんだよ。信じてないだけでしょう。
そんな感じ。
誰よりも貪欲。キモイ。死ね。
自分がそんな風に思うのも、事実。

思うこと。
命あるものすべて神かもしれない。
確かに自分の神であって、他人の神にはなれないけど。
自分の中で世界を創る。
そこまではいい。いつも通りの話。
ただ、加えて。
この世界も自分の中で創ってるということ。
世界観、という世界。
自分の創った法律で回る世界じゃなく、
この世界はこんなもの、といったこの世界の模写。
ただ、この時の神の在り方はちょっと変わってる。
創るんじゃない。神の仕事は許す、得る、ということ。
本物がある。
で、自分が「あぁ、こういうことか」と思った瞬間、世界が変わる。
模写される。それが正しいかどうかは知らないけども。
でもさ。
あり得ないように理解したら、どうなるんだろう。
それはそれで本当の世界との歪みで崩れるかな?
歪みが世界を崩す?どっちの?模写?本物?どっちも?
あぁそうだろうね。


相変わらず「思い」に対して恨みを持って、否定しようと足掻くんだけど。
すべてのきっかけとなる「思い」をなくしてしまっては何も成り立たなくなる。
それは分かってる。分かったつもりなんだけど。
恨みは「思い」なんだよな。「思い」なんかなくなってしまえ、と否定する。
そんな想像の塊。現実を否定する、現実を犠牲にする要因だ。
お前のせいで世界が崩れていくのなら、なければいい。
それは変化?それは容認されてる?世界は想像ウェルカム?
世界は恨まない?世界は求めない?
されるがまま、ただのキャンパス?
だったら。
爪を立てて。
突き刺して。
ぐちゃぐちゃにしても。
世界は何も語らない?
あぁそうだ。法則に従ってるだけの、ただの要素の集まりなんだから。
許せない、と思ってるのは。自分の中のこの世界の模写を支配する神。
許していないのはその神。
そして神はその事実を知っていて、許さぬままの自分を許さなくなる。
そうやって発生した歪みは、他人に辛い思いをさせてる。
「違う世界を自分のせいで崩したくないんだ」
その思いすら歪む。
辛いという思いを発生させて、結果自分のせいで世界を崩していく。
思いが思いを否定する。
でもこの世界に自分が存在してることを認められる気がしない。
こんなにグチャグチャにしてしまった想像の自分の世界を。
今更どうする。
自分の思いを全部全部自分への恨みに変えて。
さっさと消えてしまえばいい。
そうだ。それが成すべきこと。
罪人に罰を。
罪人の思いは言い訳にしかならない。罪人に幸せはいらない。
馬鹿は死んでも治らない。
恨んで恨んで恨んで。
それが他人を巻き込んでる事実に見向きもしない。
罪人が恨まれるのは当然じゃないか。
事実は否定出来ない。他人の思いは他人の中では絶対的でも。
この世界の事実は変えられない。
だけど他人を抱擁してる世界は変わる。
本末転倒。だけどそれは自分の思い。関係ない。
そうだ。
罪人は死ねばいい。多くの命を奪った罪人。
お前は死ぬことしか許されていない。
事実。真実。現実。それがこの世界の大原則。
そうやって、自分の間違いを正さない。
罪人を罪人と決めたのは自分なのに。
自分の法を定めて、勝手に施行してるだけなのに。
今更なんだ。
変えたいという「思い」はここにはないんだよ。
もういいんだよ。
「思い」が「償いたい」だけなんだから。
「崩したくない」のは崩してしまったから。
その償いを。他人に辛い思いをさせるのなら、その償いも。
全部全部上から乗っけて。
潰れてしまえ。大馬鹿もの。

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