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論理的?いいえ、支離滅裂です。

はい。
後期は某教授の恒例ヤクザ講義・・・ごふごふ・・・が入っております(え)
あぁいや、そんなヒドい内容じゃないんだけどね。
ちょっと言葉がキツいよね〜ってだけで。
いや、厳しいってわけじゃないのよ。キツいのよ。言葉が。
で、毎回毎回聞いてはいろいろ思うわけです。うむ。

あの教授の言うことは・・・何と言うか・・・
オレ的解釈でいくと矛盾してんじゃないかなと思ってしまうわけですよ。
というのも。
自分の見てる世界と他人の見てる世界が違うってのは納得できる。
人それぞれ違った方向に向かって生きていくってのも納得できる。
でも、その中でお互いの理解ができてるかどうかは
証明しようがないような気がしてならん。

違う世界からこっちの世界を見たって同じものを
見れるとは限らないし、解釈だってバラバラだろうし。
そんな中でよ?
教えるって、いろいろ無謀だと思う。
そりゃあ新たな刺激として得ることができるという点では、
まったく学べる要素がないとは言い切れないけども、
同じものを学べたとは到底言えないわけで。
それでいながら、必ず評価というものが存在してるわけだよ?
コイツは偉い、偉くないって。
学ぶのは偉くためであって、評価されなければ、学んだとは言えないわけだよ。
なのに評価は他世界からの評価でしかなくて、
共通の評価なんて到底できたもんじゃない。

例え「これができれば合格」なんてもので評価したとしても、
『できる=理解してる』とは限らないわけで。
丸暗記かもしれないし、もっと詳細に考えてることがあるかもしれない。
じゃあもっと細かく問おう、なんてやり始めたら、
きっと世界の成り立ちすべてについて問わなきゃいけなくなる。
でもって、それが可能になってしまった瞬間に、
世界の限界を知ってしまって、虚しくなるだけだと思う。
限界が存在していないのなら、本当の意味での理解は存在しないことになる。
それこそ、自分の中で学ぶことも評価も完結していないと、
学んだということの証明も、知識の価値も、何もかも成り立たない。
でも世の中は自分だけで完結したりしない。
自分の理解なんか遥かに越えたものが常に目の前にある。
それに自分は通用しない。
結局通用してる、と思い込み信じることしかできない。

じゃあ信じればいい。
「自分はすべてを知っている。これはこうだ。あれはこうなっている」
全部全部説明した。でも、他人は納得してくれない。
世界が同じじゃないから。
どんなに自分が「すべてを知っている」と主張したって、それに何の価値もない。
自分の知識なんて、自分が知識だと思い込んでいるだけで、
他人にとってはゴミクズでしかない。
学ぶ、なんて。本当の意味ではあり得ない。
自己満で、自己完結しているのなら、まだ希望はあるけど。
完結してないから世界はこんなにごっちゃごちゃなんだし。

まぁ。
自己満ワールド全開でいいのであれば、話は別なのかもしれないけど。
そうなると自分が他人を縛り付ける行為はタブーだよね。
「わかりもしてないヤツが口出しするな」だよね。
唯一、そこで、他人の口出しを自分なりに組み替えて
理解することを許されたとするのなら。
一方通行であっても、何か得られる可能性は・・・無きにしもあらず。
ただ、学べたという実感を教えてくれた人に伝える行為が一切できないわけで。

・・・。
善かれ悪かれ、他人から受ける刺激は学ぶことになるのかな。
自分にとって、それを評価した時に不要だったり、不正だったとしても。
それは必要なもの、正当なものをはっきりさせるためへの学び、なのかな。
何にせよ。
誰かが自分の評価をしてくれても、善かれ悪かれ意味がない。
かといって、自分が自分の評価をしたって、通用するのは自分だけ。
他人からの評価には当てはまらない。

とにかく。とにかくは。
学ぶことができたとしても、自分の学びを他人に評価される筋合いはない。
褒められることも、馬鹿にされることも。意味がない。
あの人はよく他人を馬鹿にする。
でもその価値観はあの人のものであって、自分のものじゃない。
その価値観を押し付けられるような学びは、
あの人の言う、他人が見てる世界と自分の見てる世界が違う、
という前提を崩してるようにしか思えない。

あぁ。ただ。
あの人から見た世界を理解する、という意味では学びが存在するかもしれない。
でもその人に「こういうことですよね」と言って、
本当の意味で「そのとおりだ」と言わせることは、きっとできない。
詳しく問われないか、軽くあしらわれた場合でなきゃ、そんな言葉はでない。
自分の世界で変形してしまってるから。
オレにはそれに何の意味も見出せない。通用しない理解なんて意味がない。
オレは、自分の中で完結した世界に、価値が見出せない。
そんなもの、なくても同じのように思えて仕方がない。
無闇矢鱈、自分の世界を他人に押し付けても、他人の世界で
一体何が起こっているのか理解できない自分は、
自分の干渉による他人の世界の幸せを保証できない。

・・・。
何。
結局オレにとって他人の幸せが第一?
いや、『幸せ』って単語に語弊がある気がする。
他人の世界が他人の世界として正常に存在していること、かな。
それが、第一。うん。第一。
だからそれに害を成す自分は必要ない。
自分の世界が自分の世界として正常に存在していることは。
何よりも必要ない。そんなものどうだっていい。
でも。そういう考え方を大事にしようとしてる自分は。
矛盾してる。自分を大事にしてる。
これを壊してしまったら。
オレはきっと躊躇なく他人を傷付けるだろうけど。
・・・。
なんだろうな。
死にたい。

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