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たまには自分を見ろ

自分の得体の知れない自信について考える。
何かを成すために必要な情報を集め、可不可を判断し、行動し、辿り着く。
必要な言葉をその場で考え、吐き出す。
その過程にどこか安心していて、過程から外れると不安を感じる。
何に不安を覚え、何に安心しているのか。
安心しているとき、自分は一体何に安心しているのか。
何を信じているのか。
それは自信や確信に分類されるものじゃないのか。
認めたくなかろうが、冷静にそう思う。

そこにいる自分の思考の詳細について思い返す。
何かをするために。
どういう手順で。
何をすればよくて。
そのために。
何が必要で。
どうすればそれらが揃えられるのか。
だから。だから。
細かく分解し、追っていく。
妄想を現実にするために、少しずつ現実に落とし込んでいく。
そんな作業。
そんな工程。
ふと昔、自分が0に対して抱いた感想を思い出した。


何かをするとなると、急に真剣かつ活発になる。
すべてを射抜くように見渡し、どうあるべきかを考える。
行動に移すときは力強いのに繊細かつ丁寧に物事を変えていく。
例えるなら、すべてを風で巻き上げ、普段見ているものでも
見たことのない角度と視野で物事を見て、最善を知り、
最善の在り方になるように、道を紡いでいくような。
その道は0自身すら呑み込んで0を殺そうと刃すら向けてくるのに。
それでも堂々と向き合ってる。誰かが0に怯えけなしてもビクともしない。
自分の形が壊れそうになっても、それすらどうってことないって感じで。
目的の一点を見つめて、最善を形作っていく。


自分がやっているのは、それの模倣だろうか。
いや。というより。
それが間違いなく、自分の中の最善なわけだ。
そうありたいと思うし、そうであるために足掻きたいと思う。
そういうことなんだとは思う。
実際にできているかは…正直分からない。
いや、ある程度できているから、安心する自分がいるんだとも思う。
自分で作った道と、その先に待つ目標を、信じている。
そこに不安はない。
実際は全くないわけじゃないけど。
他人に用意された道を歩くときの不安と比べれば、どうってことはない。
それが、学び。

結局自分は自分で自分をコントロールしたがっている。
目標に辿り着くために必要だから。
そう。必要だから。
自分を自分で思ったように動かすことで、目標に達するのなら。
自分は、自分でなければならない。
自分を殺すために、自分でなければならない。

あぁ。嫌な結論。

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他人が抱える『問題』を軽視する『問題』

最近、『自分』の、ではなく『一般的な』人生の目標なり、人生で成すべきことなりについて考えることがある。
人の役に立つことだったり、名誉を残すことだったり、過去の遺産や伝統の存続と維持だったり。
そういう結論に至っては、「しょーもな」という感想が湧き出てくる。

元々自分は、人というものに関心はあれど、思い入れはないタイプなんだろうという認識ではいるんだけども。
だからこそ、人が人として提示する正しさや、在り方について、大して同意できない部分があってもおかしくはない。
挙句、自分自身が掲げる人生の目標が早々の死なんだから、相入れない部分が大半になるのは、自然な流れでしかないんだろうけど。

とはいえ「しょーもな」という感想そのものについては、いかがなもんかという感覚自体はある。
仮にも誰かにとっては大事な評価軸であり価値らしいソレを、軽々しく否定するような感想に違いはない。
厳密に言えば、自分が巻き込まれる状況が好ましくないことであって、ソレそのものを否定する気はない。
んじゃなんで好ましくないのか。
自分の感想を疑うなら、自分の感覚そのものを疑うしかなくなってくる。

人の欲求消化に付き合うのに疲れたような。
人の善悪判断と概念依存に疲れたような。
そういう感じはする。
人が抱えている問題が、認識方法の差でしかないレベルの事柄で。
さも大事のように苦痛を叫び散らして、蓋を開ければ自分勝手に構築した概念に自ら苦しんでて、酷いと解決自体を望んでなくて、叫びたいだけだったりする。
誰が仲間で、誰が敵で、敵がただただ許せない、許す気もない、とか。
何をやってもできないことがある、ということにして、できるようになろうとも思ってない、とか。
もっと良くなりたいと言いながら、悪い部分を探すこともせず、指摘されることも拒んで、改善らしい改善もなく、ただただ肯定の言葉を貰えたらそれでいいとか。
オレが実際にそういう相談を聞いて、真に受けて、真剣に解決しようとして、最終的に求められていたものの正体に気づいてしまって、がっかりしたんだろう。
そういう感じはする。

人は完璧じゃない。まあそうだろう。
人は矛盾する。まあそうだろう。
そんな中で問題解決のために人が人を頼る。
そもそもあるかどうかも怪しい問題を、どういう形を解決とするかも不明瞭なまま、頼る。
結果がどうであれ、満足すれば、そこで終わり。
コミュニケーションが取りたいだけ。
問題を問題として作り出した自分を他人に認めて欲しいだけ。
他でやって欲しい。オレを巻き込まないで欲しい。
純粋に、そう思う。

分かってる。そういう態度が一番求められてない。
むしろオレのこの態度が新たにそういう問題を作り出していることも十分あり得るだろう。
でも、オレは、そんなこと、どうでもいい。
オレにとっては、どうだっていい。
そういう系統の問題が発生するのは、問題だと感じている本人が原因なんだから。

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行き止まり


自分からすれば遠い遠い場所の話でしかない。
自分はただの観客で、そこに干渉したいわけでもない。
繰り広げられている演劇を享受して、満足して、終わり。
零した言葉も無に帰してしまえばいい。
そう思う。

なのに後ろ髪を引かれるような気分になる。
呼ばれていたり、求められてるんだろうなと感じることはある。
ただそれに応えたところでどうするんだ、とも思う。
他人を不幸にするような思考しかしてない自分なんだから、
できる限り距離を取らなきゃいけないなと、そう思う。

ほらもうこの時点でおかしい。
こういう思考をしてしまっている時点で狂ってる。

自分は自分が根っからのクソである証明のために、
人目に付く場所で正直にあれこれやってたはずだ。
それなのに、他人からの評価を無視して、自分の評価だけを押し出して、
それを言い訳にしなきゃいけない状況の時点で、もう負けてるようなもんだ。

いろいろ狂うきっかけになったアレは、
ただただ感想の延長線で吐き出した汚物だったはずだ。
既存のものを自分の色で盛大に汚した行為だったはずだ。
それ自体も勝手な評価だと頭で理解していても、
向けられた言葉を受け止められなかったには違いない。

数か月経った今も狂ったままだ。

それまで自分は自分に素直でいたはずだ。
思ったことを吐き出して、思ったことをして、
その先で人から否定されようとしてきたし、
そういう行動をしてきたはずだ。
なのに今の自分はどうして我慢するんだろう?

欲しいものとは逆のものを大量に受け取ってしまったから?
それはそうかもしれない。
でもそれならそれで、その現実を受け入れてしまえばいい。
でも考えたことがない。
自分が肯定されて存在し続けるような世界を、想像すらしたくない。
こんな贅沢な悩みをしたいわけでもない。
反吐が出る。

どうしたいんだろうと考えようものなら、もう収拾がつかない。
否定が欲しいからと自分に嘘を付き始めたのなら、
それはもう自分が欲していた評価ではなく、操作した結果でしかない。
でも自分がやりたいことをこのまま続けたとしても、
その汚物を良いと評価してやってきた貴重な人たちを、
自分はきっと守ろうとはしないんだろう。
むしろ傷付けて「やっぱりオレはクソ」と笑うんだろう。
というか、今もうすでにそうなってる。
ろくでもない自分がそこにいる。

嬉しいか嬉しくないかで言えば嬉しいに違いない。
自分を喜ばせようとしたことがないから、
嬉しい気持ちを大事にしようとしていないだけではある。
だからこそ、その延長線で、人を大事にしようとしてない。
人の喜びを喜ぼうとしていないし、
人に向けられた言葉を大事にしようとしてない。

これでいいとは思ってない。思ってない、はずだ。多分。
自分自身が立てた目標には即しているのかもしれない。
でもその目標が目標として存在している理由を、
否定している気がしてならないから。
だからどうにかしたいと思ってる。だから悩んでる。
今そういう状態、なんだと思う。
最早それすら、よく分かってない。

分かってる。
オレは別に『人の味方』になりたいわけじゃない。
人のために、なんて考え方をしたいわけじゃない。
どっちかといえばアンチだろう。
オレが一切関わることなく、ありのままそこにあるのなら、
もうそれでいいわけで、オレなんていらないはずだ。

オレがそこにいてどうする?
他人の抱いた感情を言い訳にして、他人を狂わせていく?
いや、その評価自体がおかしいんだろう。本来は。
狂いたくて狂ってる人たちを否定している。
狂わせてくれと願っている人たちのありのままを否定している。
そういうことなんだろう。

オレは多分、他人の在り方を押し付けたいんだろう。
「人はこうあるべき」と考えてるからこそ、
今自分は狂ってるんだろう。
じゃあどうする?
…いや。考えたくないな。考えたくないんだよな。
自分を生かすことなんて、考えたくない。
自分を殺すことしか考えていたくない。
でもそれこそ現実を見てない。
逃げ場はもうない。

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遠い空が今日も綺麗でした

日の光が眩しくて、
暖かいと言えばその通りで、
うらやましいと思う部分もあっただろう。
でも、そこに手を伸ばすのは過ちなんだろう。
「深淵を覗くとき深淵もまたこちらを見ている」
まさにそんな状況。

ふとした瞬間に日が落ちるような素振りが見えた。
その様子にどこか共感して、
「あぁ、ひょっとして近くまで来ているのか」と、
その時になってそう思った。
引き摺り落しそうになっていると、その時気付く。

さてどうしたものか。
選択肢はいろいろある。
情報は少ない。
というか情報が『ある』と表現することすらできない。
そんな中で最悪の可能性に怯えて、
自分はどこへ行こうというのか。


そもそも、日が日になった経緯はどこにあるんだろう。
望んでそうなったのか、誰かに命じられたのか、
詳しい背景は知らないし、知る方法はどこにもない。

ただ、日が日であることで恩恵を受けている人々は、
当然の恩恵であると思っているようにも思えた。
日が自分の意志で落ちる時、
人々は全力で止めるのかもしれない。
我が儘だなぁとも思える。

とはいえ今はそういう話じゃない。
日が自身すら意図せず沈むとするなら、
それはきっとよくない。
誰かが求める限り日であろうとしているのなら、
しょうもない理由で傾き沈むべきじゃない。


我が儘を言うなら「逃げてくれ」に尽きる。
覗き込んだのがこちら側で、
原因もこちら側にあるのなら、
あまりにも我が儘な要望ではある。

それに、望んで覗き返しているのなら、
それを止める権利は自分にはないだろう。
落とされたい、だったとしても、
それも止められないだろうな。
いくらでも落ちればいい。

でももし、上がってこい、だったらどうだろう。
それはこっちの話になる。
それでいて、そのケースは今までもなんとかあった。

手を伸ばされた。
助けたいと言われた。
幸せにしたいと言われた。

でも「納得できる理由を提示しろ」と要求し続けたら、
そのうちどこかへ行ってしまった。
ただただ「こうあって欲しい」という
我が儘の矛先を向けられるだけ。
そんなもんだ。


本当は、変な気遣いをしようだなんて
おこがましいんだろう。
誰かが壊れて崩れていく様子すら、
ありのままなんだろう。

意図を汲めるわけもなく。
意図に沿えるわけもなく。
誰かが笑っていても泣いていても、
その内容が何なのかは理解するに至らず。
あまりにも無力で無能で…
あぁそんなことは知ってる。
ずっと前から知ってる。


結局祈るだけ。
結局願うだけ。
自分の愚かな行為を片っ端から非難するだけ。
誰かを狂わせる都度泣くだけ。
最早才能。いやホント。
気が付いたときには誰かの首を絞めてる。

そっとカーテンを閉めたい。
その許可すら、誰かに求めてる。
誰かを言い訳に使おうとしている。
そこまでも嫌なヤツだ。
生かす価値などどこにある?
なあ?

拍手

なあに?

何を探してるの?
オレのこと探してるの?
どうして?
何か欲しいの?
期待しちゃダメだ。
ね?

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