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ブログ日記のようなものPAGE | 2172 2171 2170 2169 2168 2167 2166 2165 2164 2163 2162 | ADMIN | WRITE 2009.10.17 Sat 23:59:51 むしろ日記は下の方今日は。
なにやらいろいろ。 考え過ぎた、というか。 嫌になった、というか。 泣きすぎて目が痛い。 まぁいつものことだけど。 なんだろな。 自分のために他人を巻き込む、と言えば聞こえが悪い。 他人のために自分を犠牲にする、と言えばタダのカッコつけ。 何故、と聞かれたら。 こう言葉にして考えていると、どうしてもその言葉に縛られて、 その間にある半端な状態を見逃してしまうから、かもしれない。 一つの形しか見えてなくて、総合的な評価ができなくなるのかもしれない。 例えば。 自分のために他人を巻き込んだ上で、その人のために自分を犠牲にする。 もしそこに、その他人の承諾があったとするなら、 それが一番丸く収まる形、なのかもしれない。 でも。 そうやって巻き込んで得たものに意味が見出せなくなったら。 全部無意味、無駄になってしまう。 目指したかったものがあって、それを得て、得たということを実感して。 それがなくて、協力してくれた人に心底礼なんか言えない。 そもそも。 そんな完璧な関係が築き上げられていたのなら、 他のヘドロな可能性の塊を見失ってしまいそうだ。 とまぁ、そんな話はオレにとっては雲の上の話で。 そもそもオレは誰かを巻き込むだなんてしたくない。 逆に誰かに巻き込まれたとしても、それはあくまで自分が死ぬための 手段として悪用するために巻き込まれるだけ。 礼を言われる筋合いもないし、心配も同情もされたくない。 中でも褒められる、認められるなんてのは最悪パターン。 理由が理由なだけに、オレに対してそういう言葉は神経逆撫でするっての。 でもって最近、逆撫で頻度が半端ない。 相手は悪気なんて全くないんだろうけど。 イライラする。 まあ、そんなきっかけ話はこれぐらいにして。 今日は久々に精神崩壊ゴッコ状態だったね。 で。 『本当の事実は信じることで得るものではない。信じないことで得るものだ』 ・・・らしいよ。馬鹿曰く。 ようは思い込みだけで出来上がった事実は本当の事実じゃないってことでしょう。 でも、そうはいいますけどね。 世の中の半分以上が思い込みで出来た事実だと思うのだよ。 といいつつ、それ自体が馬鹿の思い込みなんだけどさ。 ・・・。 他人のオレへの評価ってのは・・・ 小学生のときには殺人鬼で、中学のときには野生児で、 高校のときにはえいりあんで、大学でも一部えいりあんで通ってる。 他にも、蜘蛛だったり、サイボーグだったり、 大草原に住んでる変人だったり、一匹狼だったり。 そういう評価を昔は受けてた。 それに、馬鹿の極みだったから 『数字で人生決められるものか!同盟』に誘われて加入、とかもあった。 ようは数字の低い連中のよりどころ。 でも。 最近は周りの評価でそういうのがほとんどない。 自分で考えるのも嫌だし、口にしたくもないのだけども。 神だったり、大先生だったり、雲の上の人だったり、 失敗を知らない完璧人間だったりするみたいで。 正直、そう言われて納得できるはずもない。 それでも、そういう評価があったという事実は塗り替えられない。 そんな評価はなかった、なんて思い込んだって無駄。 じゃあ昔と比べて変わったのか、と聞かれてもNO。 相変わらずの自殺志願者だし、心底誰かが自分を信じるようなことがあれば ソイツはオレが殺しても文句を言わない、という解釈も変わってない。 大学でも1名それの犠牲になりかけたヤツがいたけども。 今になっては信じるどころか逃げ出した。 他にも数名危うい線を通った連中はいたけども。 危険を察したか、ズルズル話がこじれて嫌になったか、 その手の言葉を口にしなくなった。 とにかく、変わったつもりは全くない。 でも。 そうはいっても世界は広い。 自分が変わらなくても周りは変わる。 『個人』とか『環境』とか、あるいは『遭遇』もある。 真新しい『遭遇』なんてのはものはまさに変化の象徴で。 今まで見て来たものと共通点を探すことすら困難だったり。 それでいて、受け入れ難かったり。 話は最初に戻り。 『自分のために他人を巻き込んだ上で、その人のために自分を犠牲にする』 というパターンを実際に見てしまったというか、それが問題というか。 この辺はオレ的解釈が多々あって、実際とは異なるのかもしれないけども。 現状、オレは巻き込まれ側である。 オレの性格上、自分が巻き込まれることに文句は言わないけども、 その結果に対して褒めるとか認めるとかいうのは神経逆撫で。 それが、どうだろう。 こっちは死ぬつもりでいろいろ受け持って、言われたことを遂行するのだけども。 ごり押しで何かと作業している状況を見て、 オレが何か問題の壁にぶつかっている、と思ったのか。 自分も忙しいのに時間を裂いて解決策を探しはじめた。 でもオレに任せた内容を完全に持って行ったわけじゃなく、 オレがごり押ししようとした考え方へのヒント探し。 それこそ、オレから見て他人犠牲。 そりゃあ『言い出しっぺが向こうだから多少は構わない』なんて 考え方をするのも無きにしもあらずだけども、死ぬつもりで 何かとやってるオレにそんな考え方ができるはずもなく。 オマケに、ごり押しでしかない策へのヒント探しなのだから、 その行為すら無駄になりかねないというのに。 その人の意思決定を止める手段を、自分は持ってないからどうしようもない。 それこそ、すべてはふりだしに戻って。 意思決定をするための評価対象がはじめからなければよかった、とか、 誰かと関わる前に死んでしまえ、が結論になったり。 これからこういうことが増えるなら、本当にそうした方がいいかもしれない。 働き過ぎて死んだ、なんて理由をこじつけようとすることに必死になるより。 先に死んでしまった方が、断然早いのだし。 PR TrackbacksTRACKBACK URL : CommentsComment Form |