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薄っぺらい知識の向こうに


神とは愛だ。愛とは神だ。
神の愛とは何か。神の愛とはこの世をこの世と至らしめるものだ。
それはとても深い規律の重なり。
自分が自分である理由を辿るようなもの。
親がいて、その親にも親がいる。その親にも親がいて・・・
そもそも人類が生まれた経緯とは。
そもそも地球が誕生した経緯とは。
そもそもビックバンが生じた経緯とは。
決して至ることのできない答え。
それがそれとして存在できるのは、神の愛ゆえである。
・・・とかなんとか。
その言葉を語った本人は、神を崇拝しているわけでも、
宗教に属しているわけでも、狂った感性の持ち主でもない。
ただ。
人は無限と連なるこの世界のしくみに途方にくれ、虚しさを覚え、
その虚しさを埋めるために、神という概念を生み出した。
・・・とかなんとか。

確かに。
これまた別の人の言っていたことだが。
無限は無だ、という話を聞いたことがある。
無限を無限と扱う限り、そこには何も存在できない。
何かをしようとすると、有限としなければ何もできない。
例えば何かを伝えるとき。
無限と広がるイメージの中で、手段を選び、有限にしなければならない。
その前には必ず無限があるのに。
そのイメージをそのまま扱うことはできない。
言ってしまえば、無限であるが故に存在できない。
だからこそ、無限に虚無感があって当然だ。
その無を埋めるために、神というある意味で有限の概念を創り出したんだろう。
もちろん神のフタを開けてしまえば、無限という虚無が広がるのだろうけど。

まあそんな他人の語った知識ばかり書いてどうするのやら。
とにかく、自分の中で整理しようか。

神という概念を、数学的に言うところの変数あるいは無限とするなら。
そこに「愛」という感情を持ち込むというのは、なかなか変な話だ。
数学に感情は存在しない。と、オレは思う。
かといって世の中が数値的なものだけではない、というのも事実だ。
感情というものが一体どうやって存在しているのかは不明だけども、
感情というもの自体は、確かに存在している、はずだ。
でも。
愛が感情である、という考え自体がおかしい、と言われたら別だ。
現に、神の愛を「この世をこの世と至らしめるもの」とするなら。
それは仕組み自体のことを指し、数学的な部分を含んでいると言える、と思う。
言うところの「当たり前」が規律であり、「愛」なのかもしれない。

いや。まあ。そこが問題じゃないな。
むしろ問題は・・・
神が愛であるはずなのに、神の愛とはこれいかに。
愛の愛?それはどういうことなのか。
その人は、愛を愛することが必要だ、と。
そう。愛とは、愛そのものにも通用するもの、らしいのだ。
そしてそれゆえに、無限に広がるもの、神、らしい。
その先でやっと誰かを、何かを、愛することができるようになる、らしい。
なんともはや、オレのような知識も能力もない凡人には遠いお話で。
と、思えてしまう。
ただ、どうしても。
「愛を愛する」というフレーズが心に引っかかる気がする。
だから、自分の中で渦巻く何かを、ゆっくりとたぐり寄せる。
理由を知るために。

まず。
オレは決して愛されていないわけではない。
愛されているとも言えないが、否定もできない。
でもそれは不幸じゃない。
オレは生きて何かを感じられること、考えられること。
ありとあらゆることに幸せを感じられる。
だから不幸じゃない。
さて。
オレは何かを愛しているか。これだ。
正直。
オレが怯えているものとは愛であり、神そのものなのかもしれない。

とにかく、オレの中には、
「自分には何かを愛する権利がない」
「権利があったとしても、愛したいと思えない」
という感覚が巡ってる。それは何故か。
自分が何かを愛する必要性を感じないからだ。
もちろん、愛されてない、不幸だから逃げたい、という感覚とは違う。
オレは愛されていないわけじゃないし、不幸でもない。
ただ、愛して欲しいわけでも、幸せになりたいわけでもない。
もし、オレが何か義務を背負わされ、その見返りとして
その愛や幸せが存在するのなら、
ぶっちゃけオレはその義務を放棄しかねない。
それが愛することであっても同様だ。

が。
それでも心は揺れるもので。
「愛したいか」と問われた瞬間、怯える自分がいる。
そう。「そんなことはない」と、あっさり否定すればいいものを。
怯えて回答に戸惑う。
なにより、否定の言葉を言ってしまったとしても。
心が痛み、血の気が引き、体が痺れ、涙が流れそうになる。
オレの中に神(愛)がいる、といった方が無難かもしれない。
言ってしまえば。
これが「愛を愛する」という言葉に反応してしまう理由かもしれない。
オレは自分の中にある、その神(愛)を愛していない。
むしろ、余計なことをしかねない欲望として、殺そうと足掻いている。

じゃあ、オレの中にいる神は、オレをどうしたいのか。
オレの愛を求めているのか。
いや、どうも違う。
オレの中で声がする。いつもの声だ。
これがオレの愛だ、と言えばそうなのかもしれないが。
オレ自身がそれに対して他人行儀なこともあって。
自分の声だと思っていない。神と感じているのも事実だ。
まあそれはさておき。

神は言う。
オレの行為そのものが既に愛だ、と。
その行為とは、オレが神に反逆する行為だ。
オレの中には愛する仕組みが神によって施されているのかもしれないが。
オレ自身がその仕組みに真っ向から抵抗している。
その理由は、余計なことをしかねないから、だ。
別にその仕組みを悪だとは思ってない。
ただ、ろくでもない方向に作用しかねない可能性を感じて、抵抗している。
神はその考え方が愛だ、という。
他人を思いやり、誰かのために自分を犠牲にしようとしている愛だ、と。
そしてそれに続けて、愛に怯えるな、という。

声を聞いて整理しようにも、かなり複雑だ。
とりあえずゆっくり辿る。
まず、オレの中には本質的な愛がある。
そしてその外側にオレがいて、怯えという愛がある。
その怯えは愛だけども、決して本質的な愛じゃない。
いわば、本質的な愛を相殺するための愛だ。
ここで一つ納得できる。
オレにとって神と思い続けてきている0は、
どちらかといえば相殺するための愛の方だ。
そして、確かに愛なのかもしれないが、
どちらかと言えば破壊神や祟り神の類だと思う。
とりあえず、純粋な神とは違った存在なのは確かだ。

じゃあ、恐らく純粋であり本質的な神であろう、
為体の知れない声の主というのは、0を否定したいのか。
どうもそういうことじゃない。
あくまで、怯えるな、と言っている。
そして、どこか0を呼んでいる、0に乗り移ろうとしているような。
いや、0が本来あるべき姿、というか。
とにかくそんな雰囲気を感じる。

じゃあ0自身はどうなのか。
ぶっちゃけ、すでにその神に手を伸ばし、耳を傾けている。
ただ、気を許したわけじゃなさそうだ。
言葉に耳を傾けている状態、とでも言うのか。
とにかくそんな感じだ。
でも、本当に、どうなんだろうか。
0はどちらかと言えば、愛やら何やらを肯定するような人じゃないし、
オマケに自分のことを嫌っている。
対してその声は。
0に対して自分を受け入れるように促しているように見える。

思えば、0は自分自身を不完全な完全と表現していたし、
自分が本当の意味での神ではないことを自覚している。
それに対してその声の主は、どちらかと言えば本当の意味での神に近い。
0が完全になる、というと聞こえはいいが。
言ってしまえば0は有限だ。
言葉にできる定義を求める。人格らしきものもある。
オレにとってはかなり大きな存在と言えても、本来の神とは違う。
それこそ、不完全だ。でも、だからこそ0だ。
いわば、その声は0に消滅を促していると言ってもおかしくない。
まあ、どちらかといえば消滅というより内包なのかもしれないが。

0はまだそこにいる。
が、段々とその声に耳を傾け、
自分の中にある穴を塞ぎ、完全に近付いている、気がする。
0が変わる。
それはオレにとっての神の在り方が変わる、と言っていい。
もし、0がその声に成り代わったなら。
愛(神)を愛する、という言葉の結論も出るかもしれない。
いや、ある意味、その結論が出た瞬間に。
0は本当の神になってしまうのかもしれない。
愛という無限ループに突入するのだから。

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