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償えない罪の償い方

償えない罪。
そう分かりきっているのなら、当然それは償えない。
『償えない』のだから『償いたい』だなんて思っても、無駄だ。
でも。それでも。
償おうという意志がある時。
人は『償えない』という事実に反しようとするのだろうか。
それは無駄な足掻きでしかない、のかもしれないのに。

そもそも、それを罪だと決めたのは誰だ?
友達?親?恋人?世間?法律?
どうしてその罪は償えない?
そもそも『犯した罪を償う』とは何だ?
時間を戻すことも叶わないというのに、何が償いになる?
その償いが、犯した罪と同等であると、誰が決めた?
まるで空気を掴むように。
定義が分からない。

ただ言えることは。
罪を定めた本人にしか、罪を赦すことができない、ということ。
罪を定めた本人の前で、罪人は言う。
「私は罪を償うため○○をしました。どうかこれで赦して下さい」
この時点で罪人は、この罪を定めた本人に従うしかない。
そしてその本人が「貴方が何をしても、赦しません」と言った途端。
それはまさしく『償うことのできない罪』になってしまう。
償おうという意志を示し続けるその人は、まるで奴隷のようになっていく。

だったら自分はそこまでして、どうして赦して欲しいのだろう?
罪を赦された後、自分はどうありたくて、償おうとするのだろう?
自分が好きだから?
自分は間違っていないと証明したいから?
それとも為体の知れない恐怖を感じているからこその、自己防衛?
何にしても、自分のためでしかない。
だって、罪を定めた本人にとって罪人という存在は、
『赦したくない存在』以外の何でもないのだから。
『赦せる存在』になった瞬間、それはもう罪人ではないのだから。

ただ思うに。
ある意味、『償いたい』と『プロポーズしたい』は似てる気がする。
貴方にとって、私は赦された存在でありたい。でも今は罪人で。
貴方にとって、私は愛される存在でありたい。でも今は赤の他人で。
その人の決めた枠の中に、自分が入って行くような。そんな感じ。
ある時は気まますぎて、その枠もよくわからないものだったり。
ある時は言葉でしっかり定義された、ルールのような枠だったり。
「私は過去、確かに貴方の規範や論理を越えるようなことをしてしまった」
「でも、もうそんなことはしない。罪は犯さない」
「だから貴方の規範や論理によって私を裁き、私に償いをさせて欲しい」
「赦さないだなんて言わないで。私は貴方のルールに従って生きたいんだ」
「貴方に認められたいんだ」
そんなイメージ。実に分かりづらい。

そういう意志がある人は、きっと『その人が好きである自分が好き』なんだろう。
もし自分のことが嫌いだったら、そんなこと願わない。
それこそ、オレのように。
「お前は一生罪人だ。死んじまえ」だとか。
「当然の結果だろ。償えるだなんて思うな」だとか。
「お前なんかが誰かに認められるはずないだろ」だとか。
自分を蹴落として、自分の意志すべてを叩き潰そうとしてしまう。
・・・かもしれない。あくまで自分の話。
自分が好きになれないと、そんな意志も、生まれない。
意志を生みたいと願うことすら、ままならない。

でも、そんな自分から逸脱して、罪の償いや告白をしたのなら。
それはある意味、覚悟かもしれない。
自分は、償う。
そして誰かの決めた枠の中に飛び込んでいきたい。
誰か。何か。友達。親。恋人。世間。法律。
自分は、従う。
もう罪は犯さない。もうそのルールからはみ出ない。

「そんなの嫌だ。自分の生き方を決めるのは、自分の法律を決めるのは、自分だ」

誰も否定しないだろうよ。いや、否定出来ないだろうよ。
貴方の決めることに、誰が文句を言うだろう。
どうして耳を傾ける必要があるのだろう。
自分の定めたルールで生きていればいいじゃないか。
そして。
自分の行うすべての行為を赦してしまうか。
自分の行うすべての行為を赦さないか。
あるいはその間を定めるか。
決めるのは、他の誰でもない。自分だ。


結論は?
罪を償いたいのなら、赦されたいのなら。
相応の覚悟の元、その罪を罪と定めた本人の規範や論理、
ルールに従って生きて行く努力をしなければならない。
それが嫌なら、それ自体が自分の規範や論理でありルールなだけ。
そのルールに従っていたいと、自分が願っているだけ。
決めるのは自分以外の誰でもない。
「アイツは罪から逃げた」だなんて言われても、
「自分は逃げてない。自分は自分に納得してる。間違ってない」と思うなら。
それは間違いじゃない。
だって、最後に自分のことを決めるのは、自分以外の誰でもないのだから。
自分がどこか間違っていると感じたのなら、どこか旅に出てみたらどうだろう。
「正しい在り方、償い方はどこにあるのだろう」とか思いつつ放浪すればいい。

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